古くて新しい河越茶・河越抹茶

    河越茶・河越抹茶

    南北朝時代、武蔵河越は天下の茶所として人々が名を上げる有数の茶産地のひとつでした。関東の有力武将も愛したこの地のお茶「河越茶(河越抹茶)」は戦国時代になると栽培していた寺院・武士が衰退するとともにその名も消えていきました。

    それからおよそ400年…銘茶と呼ばれたかつての河越茶にならい、旧河越領内茶園で丁寧に栽培された高品質の茶葉を厳選し「河越茶(河越抹茶)」として新たな姿で蘇りました。

    旧河越領とは?・・・平安時代から現代までを辿り、かつて河越(川越)とよばれたことのある領土や市域のことをさします。

    碧〜みどり〜ほうじ茶ショコラ
    むすびcaféでは「碧〜みどり〜」と「ほうじ茶ショコラ」で使用しています。

    お茶の歴史と川越

    埼玉県西部は狭山茶の産地として有名だが、そのお茶の伝来については諸説ある。

    そもそも日本における茶の文化は、遣唐使によって中国から伝えられたといわれている。河越茶に関する記述は、南北朝時代の『異制庭訓往来』に初見される。そこには茶の産地として、「武蔵河越茶」も明記されている。当時茶産地形成の役割を担ったのが寺院であり、京都の栂尾、仁和寺、大和の室生寺、伊勢の河居寺、駿河の清見寺、武蔵河越の無量寿寺(現在の中院)が記されている。現在の中院には、最澄の弟子であった円仁がこの寺を創設(830年)した際、京より茶を持ち帰り、境内で栽培をはじめたという説があり、現在の中院にはその碑もある。

    河越茶・河越抹茶

    また平安時代末期に現在の川越市上戸に館を構えた河越氏が茶を栽培していたと伝えられている。河越氏の館の発掘では茶臼や茶壺なども出土しており、鎌倉中期以降に北条得宗家と密接な関わりがあったことからも、河越氏が茶をたしなみ、以後栽培や製法が広まっていったということが考えられる。特に、鎌倉時代には栄西禅師によって『喫茶養生記』が著され、薬用としての利用からも武士や僧侶の生活に欠かせない風習となっていった。

    その後、戦国時代の争乱の中で栽培していた寺院・武士が衰退するとともに茶産地も荒廃していったようである。

    河越茶・河越抹茶

    江戸時代中期になると、宇治の永谷宗円によって煎茶がつくられるようになり、江戸で「天下一」の茶として人気を博し、「お茶壺道中」といわれ、宇治茶は東海道を上り江戸に運ばれるようになった。やがて、江戸に近い狭山地域で河越茶が復興され、狭山丘陵から加治丘陵にまたがる茶の栽培に適した地域に急速に広まり、宇治茶に劣らない品質の茶の製法を確立していった。「狭山生まれの宇治製法」の茶としてますます生産が盛んになっていった。こうして、現在でも埼玉県西部地域は茶の栽培が盛んだが、その背景には徳川による江戸幕府創設にともない関東が政治や文化の中心となったことがあげられる。また、地域のお茶の産地としては北限といわれ、冬の寒さを越えて出る芽は旨みが凝縮され、まろやかな甘みとコクが特徴である。

    時代の変遷とともに、その時代にあったお茶が作られてきた。最近、河越茶が数百年の時を超え、新たなブランド「河越抹茶」として蘇り、川越市内を中心につぎつぎと河越抹茶を使った商品が開発されている。

    今回この埼玉県西部におけるお茶の来歴に触れ、周辺地域に広く及ぶ大きな歴史が存在していることをあらためて感じることができた。

    製茶機械開発に人生をかけた高林謙三

    高林謙三翁(以下、謙三翁)は、天保3年(1832年)武蔵国高麗郡平澤村の百姓の長男として生まれた。困窮した暮らしだったが、志を立て16歳から皇国医法を4年、20歳で西洋医学、21歳の時に佐倉藩侍医順天堂・佐藤尚中に学んだ。25歳の春、川越町の薬種問屋の娘と結婚、小仙波村で医院を開業し、30歳で小仙波村琵琶橋に土地を求め立派な医院を建てた。32歳の時に、川越藩主松平大和守の抱え医となり名声に拍車をかけ西洋医の権威者として知られるようになった。

    河越茶・河越抹茶

    安政6年(1859年)の開港後、日本の輸出品は僅かに茶と生糸だけで、貿易不均衡は拡大した。そこで国を憂いた謙三翁は「茶の増産こそが国家百年の大計である」と一念発起し、自らの私財を投じて茶業を興す決意をした。明治2年38歳の時、付近の山林4町歩(約4ha)を求め、開墾し、茶の種を蒔いた。明治10年より製造をはじめたが、手揉製茶の生産性の低さを知り、製茶の機械化を痛感した。明治11年より発明の構想に入り、明治18年日本に特許条例ができると第2、3、4号を取得した。

    しかし、発明の仕事は厳しく、失敗や隣家の延焼で財がなくなり、厳しい生活を強いられたが、晩年の明治31年、茶葉粗揉機(特許第3301号)を完成させた。その「高林式茶葉粗揉機」は緑茶製造法に一大革新をもたらした。現在使われている粗揉機の原型であり、機構は当時そのものである。日本の茶業にとって、謙三翁の功績は非常に多大である。明治34年、70歳で永眠し、喜多院の閻魔寺に葬られている。またその功績に対し、全国茶業関係者を以って喜多院境内に頌徳碑が昭和28年建立された。

    河越茶・河越抹茶


    資料・写真提供
    株式会社 十吉